救われなかった怪物――江坂麗奈に見る愛と破壊の倫理的錯乱
『私の夫と結婚して』は、2024年1月1日から2月20日まで韓国でtvNにて放送されたテレビドラマである。原作は同名のウェブ小説(作者:sungsojak)。末期がんを患う女性が、不倫した夫と親友に殺害された直後、10年前にタイムスリップし、復讐を果たすサスペンス風ロマンティック・コメディとして制作された。
日本では、韓国版とは全く異なる日本オリジナル版が制作され、Amazon Prime Videoにて2025年6月27日から配信された。本作は配信開始後30日間の国内視聴者数において、Amazon Originalドラマ史上歴代1位を記録した。
物語の基本構造――不倫した夫(自己愛型パーソナリティの傾向を持つ)と反社会性パーソナリティの特徴を強く持つ親友・江坂麗奈に殺害され、その瞬間に主人公・美紗が10年前にタイムスリップするという設定――は両版で共通している。しかし日本版は、心温まる恋愛要素をより洗練させつつ、サスペンス色を大幅に削ぎ落とした。代わりに人物造形を極めて緻密に練り上げ、現実味のある人間関係と心理描写を構築している。
小芝風花演じる美紗、彼女を静かに支える佐藤健演じる上司、夫役の横山裕、そして美紗の親友を演じた白石聖をはじめ、キャスト全員の繊細で深みのある演技が光る結果、韓国版とは似て非なる作品に仕上がった。文学的・精神医学的にも出色の完成度と言える。韓国版が韓流ドラマらしいジェットコースターのような高速サスペンス復讐劇であるのに対し、日本版は小芝風花演じる美紗の「再生」と内面的成長を精緻に描いた人間ドラマとなった。主人公が脇役のような人生から脱し、人間的に美しく成長していく過程が丁寧に紡がれ、小芝風花にとって重要なマイルストーン作品となっている。比喩的に言えば、韓国版がスリリングなジェットコースターなら、日本版はゆったりと情緒を味わえる観覧車のような作品だ。そして何より異彩を放つのは、白石聖が演じる江坂麗奈の存在である。
麗奈は一見典型的な悪女的キャラクターである。しかしその行動の深層には、自己の欠損や不幸を他者に転嫁することで心理的均衡を回復しようとする病理的構造が存在する。この構造は、無差別大量殺人や連続殺人を犯した者たちの精神病理――とりわけ「自分だけが不幸であることへの耐えがたい不公平感」を根拠とした心理機制――と驚くほど類似している。麗奈の生育歴は極めて劣悪だった。情緒不安定で暴力的なシングルマザーに養育され、小学生の頃、目の前で母親の投身自殺を目撃している。離婚した父親も養育を放棄し、富山の祖父に預けられた。母親から受けた精神的虐待と父親からの完全な拒絶は、生涯癒えることなく、彼女を極度に歪んだ毒性の強いサイコパスとして形成した。
麗奈の精神病理も、無差別殺人者と同じ論理に支配されている。彼女は他者の幸福や安定を許さず、それを破壊することで「自分だけが不幸であること」を回避しようとする。この行為は無差別殺人者の暴力的行動とは異なり、心理的・関係的操作の形を取るが、精神病理としては鏡像的に同型である。両者に共通するのは、自己の欠損を受容せず、他者を犠牲にしてでも心理的均衡を回復しようとする点である。麗奈の場合、その根底には愛されなかった経験や両親に捨てられ過去がある。彼女は自己の欠如や不孝を内面で消化できず、常に他者との関係に補償を求める。具体的には、美紗の幸福や成功を自らの不幸の鏡として認識し、それを心理的に操作・破壊することで、自らの存在価値を回復する。この行動は、日常的に見られる「自分の不幸を他者の不幸で相対化する心理」、「自分はうまくいかないが、あの人もたいしたことはない」と安心する病理的拡張形である。美紗が少しでも幸せになるのを許せず、「自分より上になるなんて許せない」と根こそぎ奪う行動に至る。「美紗をひどい目にあわせて、それを見てほくそ笑む」タイプの陰湿さは毒性が極めて強い。親友面しながら美紗の入院中に夫と情事に及び、現場を目撃されると即座に豹変し美沙をおいつめる欺瞞がその行動の本質である。階段でわざと転んで部長・亘に近づく自作自演など、計算ずくのマニピュレーション、虚言癖も顕著である。特筆に値するのは白石聖の二重人格の演技である。突然人格乖離が起きるその様相は見るものに恐怖を与える。
無差別殺人者の中には、永山則夫のように自己語りによる内省を試みた者もいる。永山は手記『無知の涙』において、自らの欠損や罪を言語化し、社会や他者との関係を再構築しようとした。一方、麗奈の言語は自己理解や罪の自覚のためではなく、他者を支配・操作するための装置である。言語による自己救済の萌芽はなく、自己の破滅へと向かった。最後は観覧車から転落し、かつて目の前で目撃した母親と同じ死の転帰を迎えた。この差異は精神病理学的に、永山が「反社会的自己愛構造+言語による可塑性」を持つのに対し、麗奈は「反社会的自己愛構造」が固定化していることを示す。すなわち、麗奈の病理は、自己欠損の発露が社会的・心理的手段を通じて永続化しており、治癒や内省の可能性はほぼ存在しないまま一生を自ら終えた。
江坂麗奈と無差別殺人者の精神病理は根底で共通している。それは反社会性パーソナリティ症としてとらえることができる。しかしこのドラマには、それだけではない精神病理――白石聖が体現した「美紗が好きだからこそ壊したい」という歪んだ愛情と、救いのない固定化された病理――が加わり、ドラマとしての文学的・精神医学的深みを作り出している。
この精神病理は、MSBP(Munchausen Syndrome by Proxy、代理ミュンヒハウゼン症候群)に通底する部分がある。MSBPとは、自分自身ではなく他者(主に自分の子ども)に病気を捏造・作為・虚偽報告し、不必要な医療を受けさせることで周囲の注目・同情・称賛を自分に向ける、小児虐待の特殊型であり、虚偽性障害(作為症)の代理型である。厳密には麗奈と美紗の関係は親子ではなく、医療的作為もないため定義から外れるが、「大事な他者を不幸な状態に置き、それを呈示・利用して自分に追加の承認と存在感を得る」という心理機制は部分的に重なる。
そのメカニズムが明示的に示されたのは、高校時代および同窓会でのエピソードであろう。麗奈は美紗を「親友」と装いながら、陰で美紗をクラスで孤立させるいじめを主導・仕組む。クラスメイトは美紗を毛嫌いし、露骨な無視や虐めを行う。美紗はそんな高校時代を思い出したくもなく、クラス会に出席する意思はなかったが、麗奈に騙されて参加し、案の定クラスメイトから罵詈雑言を浴びせられる。麗奈はそれを眺め、自分の存在感として認識し、隠れた快楽を得る。一方で「そんなダメな美紗にも優しく接する麗奈は素晴らしい人格だ」と周囲から追加の承認を受け、歪んだ満足感に浸る。その後も二人は「親友ごっこ」を続け、視聴者は違和感と恐怖を感じながらも、ドラマの巧みな仕掛けに嵌まっていく。
白石聖は、麗奈の心理の根底に「美紗への複雑な執着と、好きだからこそ許せないという感情」があったと複数のインタビューで語っている。その洞察が、視聴者の心に深く刺さる最大の理由である。白石聖はこれを役作りの中核に置き、「表情筋を徹底的に研究し、表裏の切り替えを鏡の前で繰り返した。美紗への特別な執着を『好き』という感情で繋ぐことで、ただの悪役ではない深みが出せた」と振り返っている。実際に美沙が好きだと意図して演技していることが推測される場面がいくつか存在する。その結果、あの「可愛くて憎らしくて恐ろしい」麗奈が生まれ、その二重人格を視聴者が「最後は可哀想」とさえ感じるほどの演技の光が生まれた。反社会的パーソナリティ症とMSBPの心理機制が部分的に重なった麗奈の精神病理が、現実的な恐怖として体感できる点が、このドラマの最大の魅力である。視聴者は「愛と破壊が融合した倫理的錯乱」として麗奈を理解し、強く引きつけられる。
元々企画段階では「韓国版と日本版を全く異なる作品として同時進行で制作する」方針であった。脚本家も監督も異なるスタッフで臨んでいたが、韓国版が先行して配信され、世界的に高い評価を獲得したため、日本版は「リメイク版」と見なされ、視聴者の初動モチベーションが下がってしまった感は否めない。しかし韓国版が韓流ドラマ特有の起伏の激しいエンターテインメントを主眼とした結果、人物造形がやや粗雑で非現実的な設定になったのに対し、日本版は緻密な人物造形と現実味のある人間関係を重視し、より質の高い人間ドラマに仕上がっている。両者は全く異なる作品であると言える。レビューを見ても、作品の完成度と深みでは日本版が優れているとする意見が多数を占める。
韓国版、日本版ともハッピーエンドを迎えるが、韓国版は爽快感が残るのに対し、日本版は静かな幸福が余韻を残す。その余韻こそが、本作を娯楽作品ではなく愛と破壊の倫理を描いた心理劇として成立させている。