朝ドラ「あんぱん」主人公ノブの魅力
現在放映中のNHK朝ドラ「あんぱん」を繰り返し視聴しており、そのたびに新たな感動を覚えます。視聴率も高く最近の朝ドラでは大成功の部類に入るでしょう。敗戦から80年の節目に戦中戦後の社会を意欲的に描いたドラマとの位置づけも可能です。反戦ドラマとしてよく使われるストーリーは戦中に反戦を主張し、戦後にそれが正しかったとする展開が多くあります。代表的な作品として「二十四の瞳」が挙げられますが、本作では、戦中に軍国教育を推進していた教師が、戦後に価値観の転換に苦悩する姿が描かれています。NHKは同時に「トト姉ちゃん」を再放送しています。トト姉ちゃんでは戦中に戦意高揚を煽った花森安治をサイドストーリーに据え、戦後そのギャップの苦悩を描き、反戦を強く訴えています。戦中に反戦を訴えることは困難であり、極めて例外的な事例でしょう。大多数は程度の差はあれ戦争擁護であったと考えられます。その戦争擁護派をメインに据えた意義は大きいでしょう。戦後80年の節目にこの二つを世に問うNHKに敬意を表します。
「あんぱん」は、やなせたかしとその妻・暢(のぶ)が「逆転しない正義」を追い求める中で誕生した、アンパンマンができるまでの物語を描いています。内容はほぼ史実に基づいており、登場人物の多くはアンパンマンに登場するキャラクターを下敷きにしている点に、やなせたかしへのオマージュが感じられます。脚本を手がけた中園ミホは、小学生の頃にやなせたかしへ送ったファンレターがきっかけで、長く文通を続けていたというエピソードがあり、本作への強い思い入れが伝わります。ドラマでは二人が幼なじみとなっていますが、実際は異なります。やなせたかしは高知県で育ち、妻・小松暢は大阪生まれ・大阪育ちで、女学校時代には短距離走が得意で「韋駄天おのぶ」と呼ばれていました。卒業後に上京し、日本郵船勤務の高知出身・小松総一郎と出会い結婚しますが、新婚早々に夫は召集され、暢は高知で終戦を迎えます。その後、夫は帰還後に病死し、暢は高知新聞社に入社、『月刊高知』の編集者となります。その職場で、入社から3カ月後にやなせたかしと出会いました。
ドラマにおいて新聞社以降の描写は概ね史実に沿っていますが、それ以前の部分には創作が多く、そこに作者の明確な意図が読み取れます。物語は「ハチキンおのぶ」と「たっすいがのたかし」の関係性として描かれています。「ハチキン」は土佐弁で男勝りを意味し、「たっすい」は頼りない・へなちょこなどを指します。東京から転校してきた少年・たかしは同級生の男子にからかわれ、いじめを受けます。それに対して、好意を寄せていたのぶが下駄でいじめっ子を殴り、押し倒して頭に傷を負わせるという衝撃的なエピソードから物語が始まります。ノブは嵩(たかし)の描く温かみのある絵や漫画に癒やされ、彼の優しさに惹かれていきますが、時折その弱々しさに対して感情を爆発させます。「たっすいがーのドアホ!」「シャンシャンと東京にいね!」という叫びは、幼少期だけでなく成長後にも何度も嵩に向けられます。そのたびに嵩は深く落ち込みながらも、変わらずノブを想い続けます。ノブもまた嵩に対する愛情を持ち続けてはいますが、心の中では大きく揺れ動いています。最終的には史実に基づき、互いの愛を確かめ合って結ばれるのですが、それまでの紆余曲折がドラマの核となっています。
ノブは実家を離れて女子師範学校に進学し、寄宿舎での生活を始めます。一方、嵩は東京の美術学校に入学し、自由な校風にすっかり馴染んでいきます。彼の担任は軍人を嫌う芸術家であり、嵩はその影響を強く受け、反戦・自由主義的な思想を育てていきます。これに対して、のぶは徹底した愛国教育を受け、模範的な学生として「愛国の鑑」と称され、新聞記事にまで取り上げられます。そのことが家族の誇りとなり、のぶ自身もその評価に応えようと奮闘します。このように、二人は距離的に離れるだけでなく、思想的・精神的にも大きな隔たりを生じていくことになります。休暇で一時帰郷した際、二人の間には深刻な衝突が起こります。のぶは嵩に対して、幼少期にも投げかけた「シャンシャンと東京にいね!」という言葉を再びぶつけ、ふたりの関係には決定的とも思える亀裂が生じます。嵩はその言葉に傷つきつつも、ノブへの想いを手放すことはありません。ノブもまた、自らの感情を制御できなかったことを深く後悔し、嵩の育ての親である叔父に涙ながらに打ち明けますが、二人の距離はしばらく埋まりません。
朝ドラの宿命として、1回の尺が15分と短いため、物語を盛り上げ、次回への期待を持たせる工夫が必要となります。時にその工夫が裏目に出て、展開に不自然さが生じることもあります。「あんぱん」の中でノブは若松次郎と結婚するのですが、その経緯が極めて不自然でドラマ全体を傷つけています。「あんぱん」において特に違和感を覚えるのは、ノブが若松次郎と結婚する経緯です。ノブは心の中で嵩を想いながらも、次郎の包み込むような優しさに触れ、突発的、あるいは衝動的に結婚を決意します。しかしその時、ノブが嵩をどのように位置づけていたのかが脚本上では描かれておらず、視聴者にとっては釈然としない印象が残ります。また、若松次郎という人物も、どこか芝居がかった台詞回しや態度が目立ち、やや嘘くさく感じられる一面があります。史実では、のぶは最初の夫と死別しており、ドラマ上での結婚は必然といえますが、幼なじみの嵩をどう思い、どう折り合いをつけたのかが描かれないまま進むため、物語の整合性に綻びが生じています。そうした構成上の不自然さを補ったのは、俳優陣の力量です。特に、ノブを演じる今田美桜の演技は非常に秀逸です。ノブの婚約が決まった後、嵩の育ての親である叔父が亡くなり、深く落ち込んだ嵩をノブが慰める場面は、思い出すだけで胸が熱くなります。その場面は一見、古くからの友人としての「友情」のように描かれていますが、実際にはそれを超えた複雑な感情が交錯していると感じられます。今田美桜はその微妙な感情の揺れを見事に表現しており、涙を流しながらの表情や声のトーンは、視聴者の心に深く訴えかけます。このドラマでは、ノブだけでなく他の登場人物も、役者の演技によって脚本上の課題を補い、物語に説得力を与えています。中でもノブの豊かな情動表現は圧巻で、明るく元気で正直に、力いっぱい生きる姿に強く惹きつけられます。彼女は感情の起伏が激しく、それが周囲に大きな影響を与えます。とりわけ嵩は、ノブの情動に何度も揺さぶられますが、それでも彼女への想いを貫きます。ノブの感情の爆発は、彼女の生まれ持った性格に深く根ざしており、そのあり方は、時に視聴者に戸惑いを与えながらも、圧倒的な存在感を放っています。
やなせたかしは、実在の小松暢について「スカーレット・オハラのような性格だった」と語っています。その性格は、アンパンマンに登場するドキンちゃんに受け継がれ、ドラマのノブにも反映されています。スカーレット・オハラは、感情の振れ幅が非常に大きく、自己中心的で、常に周囲の注目を集めようとする人物として描かれています。情動の抑制が効きにくい彼女の性格は、現代の精神医学的観点からは、ADHD(注意欠如・多動症)や演技性パーソナリティ障害の特徴と重なります。とはいえ、彼女は極めて目的志向が強く、計画性も備えており、戦時下の困難な時代においても事業を成功させるなど高い適応力を示しています。そのため、臨床的なADHDの診断基準には必ずしも当てはまりません。結局のところ、彼女のようなキャラクターは、作者によって創作された人格であり、複数の実在人物の特徴が織り交ぜられた「コラージュ」として成立しているのです。彼女の豊かな情動は多くの人の共感を呼び、応援される存在となっています。しかし、その激しい感情表現が周囲との間に修復不可能な溝を作ることもあります。作中でスカーレットを深く愛したレット・バトラーも、最終的には彼女のもとを去っていきます。
感情の激しい揺れ動きは、豊かな喜怒哀楽の源であり、その表情や声には強い魅力があります。同様のキャラクターとして、『東京ラブストーリー』に登場する赤名リカも、多くの視聴者に愛された存在です。彼女は突然泣いたり笑ったり、衝動的に行動したり、相手の気持ちを顧みずに自分の感情をぶつけたりします。「カンチ、セックスしよう」というセリフはその象徴的な例として有名です。彼女の飛び跳ねるような歩き方もまた、ADHD的な特徴を彷彿とさせます。一方で、赤名リカは仕事を段取りよくこなし、成果も上げています。その高い適応能力は、やはりADHDの診断基準には該当しない要素です。彼女もまた、作者が魅力的と感じた複数の人格の「パッチワーク」によって創られたキャラクターであり、現実とは異なる創作上の存在です。私自身もこの作品を繰り返し鑑賞し、毎回深く感動しています。演じた鈴木保奈美の他の作品も視聴しましたが、赤名リカのキャラクターは彼女の他の役柄には見られず、これはまさに彼女の高い演技力によって成し得た奇跡だと感じています。
情動を抑制しない生き方は、多くの人々にとって憧れの対象です。スカーレット・オハラや赤名リカのようなキャラクターは、激しくも正直な感情表現によって視聴者の心を惹きつけ、多くのファンに愛されてきました。しかし、そうした人物と実際に関わる相手にとっては、感情の奔流に振り回され、疲弊することも少なくありません。たとえば『東京ラブストーリー』では、永尾完治が最終的に赤名リカではなく、より安定した関口さとみを選んだことに、多くの視聴者が納得しました。これは、現実において「情熱的な恋」と「安定した関係」の両立が難しいことを象徴しています。朝ドラ「あんぱん」のノブは、そうした情熱的な女性像からは一歩引いたキャラクターとして描かれています。感情を爆発させる場面こそあるものの、その直後には深い反省と自己内省があり、結果として周囲を傷つけずに関係を修復していきます。ノブの感情表現は激しくとも、破壊的ではないためADHDの範疇には入らないといえるでしょう。それに対し、嵩(たかし)は極めて寛容で、無条件にノブを受け入れる包容力を備えています。彼のような人物が身近に存在することで、ノブは自己を肯定され、成長することができたのです。二人が結ばれる過程を通して、視聴者は自らも癒され、幸せな気持ちになることができる――それこそが本作の大きな魅力です。ノブが出会うさまざまな出来事に引き込まれ、彼女とともに喜び、悲しみ、苦しみを共有できるのは、ひとえに今田美桜の演技力によるところが大きいでしょう。彼女の豊かな表情と繊細な感情表現は、ノブという人物像を実に立体的に浮かび上がらせています。
情動コントロールは極めて重要です。全ての人に情動は存在し、その表現法で自分を、そして周囲を幸にも不幸にもします。情動は決して抑制するのではなく、適切に表現することの重要性を再認識する必要があります。近年の脳科学の進歩は目覚ましく情動のメカニズムが明らかになりつつあります。その中心的な役割を果たしているのは扁桃体と前頭前野とされていますが、これらのネットワーク全体の構造や機能については、依然として解明の途中にあります。脳の一部を破壊することである種の精神疾患の治療する試みは19世紀半ばから行われていましたが、ポルトガルのモニスが「ある種の精神病症状に対するロイコトミーの治療的価値の発見」を発表、それに対し1949年にノーベル生理学、医学賞を受賞しました。その後しばらくの間、この手法は積極的に実施されていましたが、有害事象が多く報告された為、現在ではきわめて限定された状況下でのみ行われています。このような外科的治療の非道徳性は許されるべきではありませんが、その過程で得られた脳機能に関する知見は貴重です。たとえば、前頭前野と扁桃体の神経連絡を切断すると、喜怒哀楽の表現が乏しくなり、無表情・無感動となる一方で、暴力的な行動が劇的に減少することがあるため、かつては広く行われていました。しかし、その非人道的な側面が次第に問題視されるようになりました。ロボトミーの結果は必ずしも安定せず、むしろ攻撃性や情緒不安定を助長することすらあると報告されています。交通事故などで前頭葉が損傷するケースも少なくなく、そのような症例では、入院後に攻撃的・異常な行動が現れることも少なくありません。1962年にはケン・キージーが小説『カッコーの巣の上で』を発表し、1975年には映画化されアカデミー賞5部門を受賞するなど、ロボトミーの非人道性を広く社会に知らしめる契機となりました。一方で、扁桃体の機能も徐々に明らかになってきました。扁桃体は、恐怖や怒りといった情動を引き起こす危険への即時反応、感情を伴う記憶の強化、外部刺激が「危険かどうか」を判定する認知機能、さらには怒りや恐怖などの社会的表情の識別と反応、自律神経系・ホルモン系(心拍上昇・発汗など)との連携など、多岐にわたる機能を担っています。
情動の障害はADHD(注意欠如・多動症)だけでなく、ASD(自閉スペクトラム症)でも見られますが、両者には明確な違いがあります。ADHDでは、衝動性が強く、瞬間的に感情が爆発する「ブレーキの弱さ」が特徴です。自分を客観的に捉える力はあるものの、感情の制御ができずに爆発してしまうのです。ただし、感情の切り替えは比較的早く、長く引きずることはあまりありません。前頭前野の制御機能の低下と扁桃体の過活動が主な要因とされ、ドパミンやセロトニンといった神経伝達物質が関与しています。一方、ASDにおける情動抑制の障害は「処理過負荷」によるものとされます。環境刺激や社会的誤解に対する不安や混乱が蓄積されることで、パニックやフリーズ(思考停止)に至ります。特に、想定外の出来事や音・光などの感覚刺激が引き金となり、強い混乱や不安が生じ、状態が長引くことが少なくありません。ASDではドパミンの関与は限定的で、主にセロトニンが関係していると考えられています。ただし、これらの情動反応は病的なものではありません。誰にでも起こり得る自然な現象であり、情動の多様性こそが豊かな精神生活に不可欠だといえるでしょう。怒ったり泣いたりしても直ぐにケロッとする人、一旦臍を曲げるとなかなか戻らない人は日常的に出会うキャラクターです。情動の制御は、脳内の複雑なネットワークによって支えられており、それが極端に偏ることで社会生活に困難が生じることがあります。しかし、このネットワークを理解することで、制御の偏りは修正可能です。現代は、そうした調整が技術的に可能となりつつある時代ですが、脳の全容解明にはまだ程遠く、私たちはようやくその「入り口」に立ったばかりです。その入り口のキーワードとなるのが「成功体験」です。生物は、成功体験──たとえば食料を得るといった経験──を通して進化し生存してきた経緯があります。そのため報酬系の記憶は強化されやすく、逆に失敗体験──しばしば死に結びつく──の記憶は抑制されやすい傾向にあります。この「成功体験」と対をなすのが、PTSD(心的外傷後ストレス障害)です。いずれも脳実質に変化をもたらすことが知られており、近年では、PTSDが細胞レベルで遺伝子変異を引き起こすことが報告されています(Nature 643巻8072号p.744)。
近年、情動とホルモン系との連携が注目されています。かつてはロボトミーのような外科的手段によって情動を制御しようとする試みもありましたが、現在では薬理学的介入や神経科学の進展により、非侵襲的な方法で情動コントロールが可能であることが示されています。アドレナリン、ノルアドレナリン、ドパミン、セロトニンなど、さまざまな神経伝達物質の機能が明らかにされつつあります。なかでも多幸感をもたらすホルモンとしてオピオイドが知られています。オピオイドの作用機序についても解明が進んでおり、オピオイド受容体はモルヒネのようなオピオイドと結合することで鎮痛作用や依存性といった効果を発揮する細胞表面のタンパク質であることがわかっています。主にμ(ミュー)、κ(カッパ)、δ(デルタ)の3種類のサブタイプが存在し、それぞれ異なる生理的作用を持ちます。さらに受容体は細分化されており、μ1は多幸感に、μ2は依存性に関与するとされています。モルヒネのような植物由来のアルカロイドは、これら複数の受容体に広く作用するため、鎮痛効果の一方で副作用や依存性が問題となります。しかし、薬物を使用しなくてもμ1受容体を刺激し、多幸感を得ることは可能であるとされており、その代表例が「成功体験」です。たとえばテレビゲームは比較的容易に成功体験を得られることから、達成感や快感を誘発しますが、その反面、依存性も指摘されています。ADHDにおいては、扁桃体の過敏状態が明らかになっています。この結果として、怒り、不安、否定的な表情などへの反応が過剰となり、「些細なことでキレる」「感情が爆発しやすい」といった症状が生じます。通常であれば前頭前野がこの過剰反応を抑制しますが、ADHDではこの抑制機能が十分に働かず、情動のコントロールが困難になります。これに対し、ノルアドレナリンやドパミンの濃度を高める薬剤によって前頭前野の働きが強化され、感情の抑制機能が改善されることで、集中力の向上や情動の安定が期待できます。
ADHDに対する薬物治療によって、学力の向上が可能になる場合もあります。ただし、それは一部の例に限られ、多くの場合、学力には大きな変化が見られないとされています。たとえば、「ビリギャル」は偏差値40から慶應大学に合格した例として知られていますが、彼女が薬物治療を受けていたかどうかは不明であり、書籍や映画でもその点には一切言及されていません。この事例で強調されているのは、薬に頼らずに集中力の障害を克服する方法であり、それは多くのケースに応用可能であると示唆されています。その方法の中心にあるのが、いわゆるPDCAサイクル型の学習法です。すなわち「計画(Plan)→実行(Do)→評価(Check)→改善(Action)」というサイクルを繰り返し、学習の質と効率を高めていく方法です。本人に合った学習法を、相談を通じて一緒に構築し、成功体験を積み重ねることでモチベーションを高めることができます。さらに、非批判的な環境を整えることで、正確な自己理解と強い自己肯定感を育てることができます。実現可能な目標を複数人で検討・設定し、その達成結果を多方面から評価されることで、強い成功体験として確認され、多幸感を得ることができます。一方、上から達成不可能な目標を一方的に課され、どれだけ努力しても正当に評価されなければ、成功体験を実感することはできません。目標未達を前提に高すぎる目標を設定するのは、いわゆるブラック企業に見られる典型的な儲ける為の手法であり、これは従業員を疲弊させるだけです。PDCAサイクルは、ADHDに限らず、あらゆる場面において有効な方法といえるでしょう。ADHD傾向の強い「ノブ」のような人格は特異なものではなく、多かれ少なかれ誰しもその傾向を持っています。強い情動を持つことは、強い成功体験と表裏一体であり、そのとき脳内に「幸せホルモン」が分泌されているという科学的エビデンスは乏しいものの、私たちはその効果を実感として体験しています。
負の情動をどうコントロールするかも重要な課題ですが、それも成功体験の積み重ねによって改善される可能性があります。非批判的な環境を整え、そこで喜怒哀楽を共有することで、正確な自己理解と強い自己肯定感を育てることができます。これについても科学的な裏づけは十分とはいえませんが、現実の経験からすれば納得のいく話です。昔から「愛する人と一緒なら喜びは2倍に、悲しみは半分になる」と言われるように、感情の共有が人の心に大きな影響を与えることは、私たちが日常的に感じていることなのです。