1Q84に見られる虐待の影

 世界的なベストセラーとなった1Q84のどこに、そこまで多くの人を引きつける魅力があるかは、一読して見当がつく。作者本人が述べているように、多くの人の興味をそそるエンタテイメントにするため、総合小説の構成で書かれていることがその理由であろう。作者は明らかに不特定多数を意識して小説を書いた。結果としてサスペンスアクション、SF、ミステリー、ノンフィクション、ポルノ(しかもハードコア)、純愛ラブストーリーと実に多彩なジャンルを組み込んでいる。大型百貨店が各階に異なるジャンルの商品を魅力的に、しかもぎっしりと陳列しているようである。その売り場を提供するビルの外観は宗教、神であり、コンクリートビルの強度を保つ鉄筋部分は虐待が担っている。入り口を入るとそこにヤナチェックのシンフォニエッタが、不協和音に近い管楽器のユニゾンと、唐突で複雑なティンパニのリズムが流れ、異空間に迷い込んだ気配を漂わせている。そして映画「華麗なる賭」のフェイ・ダナウェーに似た青豆が、連続殺人犯として登場し、その世界は月が二つあるパラレルワールドとなっている。この小説には3つのストリーラインが用意されている。1巻と2巻では青豆と天吾が交互に登場する、3巻ではそれに牛河が加わる。牛河が殺人事件の真相に迫る様子はミステリー仕立になっている。カラマーゾフの兄弟は、前半部分では神と悪魔、児童虐待を題材に人間の残酷さ、善と悪について登場人物にそれぞれの立場で語らせ、後半部分では父親殺しの犯人を追及するミステリー仕立てになっている。まさに1Q84もほぼ同じ骨組みだ。作者はカラマーゾフの兄弟に影響を受け、それに類似した総合小説を目指したことをインタビューで述べている。青豆、天吾、牛河三人の特徴は、小児期に何らかの虐待を受け、その足枷をひきずって成人していることである。パラレルワールドはリトルピープルが、空気中から糸を紡ぎ出し、サナギをつくることから出現し、月が二つあることがその特徴である。青豆は殺人を実行する過程でこのパラレルワールドに入り込む。天吾はふかえりという少女が書いた投稿小説を書き直すことによりふかえりの世界、即ち月が二つある世界に入り込む。牛河は青豆と天吾を追い詰める過程でこのパラレルワールドに迷い込む。さらにここに出てくる事件のほとんどは実際にあった事件が下敷きになっている。オーム真理教事件、エホバの証人、東電OL殺人事件、地下鉄サリン事件が、さすがに実名では登場しないが、名前を見ただけでそれとわかるようになっている。全共闘による学園紛争が、山岸会を連想させる原始共産主義運動、たかしま塾に移行し、その中から武器を使った革命を目指す一派、あけぼのが分裂し、それが警察と銃撃戦を行うとする設定は明らかに連合赤軍誕生から浅間山荘事件に連なる事件を指している。あけぼのが分派した後の、残されたたかしま塾がさきがけとなりそれが宗教団体になっていく。山岸会から連合赤軍やオーム真理教が分派したわけではない。内容はすべてフィクションでありながらその説明、解釈は実際の事件の解説になっていることが、ノンフィクションとしての体裁を取っている。

 性的な描写も容赦なく用意されている。行為の描写も微に入り細に渡っている。不倫から始まり、性的虐待、17才未成年少女と30才男の性交、近親相姦、果ては手錠を使った変態セックスプレイと、いずれも石原東京都知事の逆鱗に触れる内容ばかりであり、東京で発禁処分になっていないのが不思議なくらいだ。盛り沢山の最後は青豆、天吾の純愛物語で締めくくられていることが読後感を優しく、爽やかなものにしている。

 

 多義的な内容である事から、この物語から読み取る内容は人によって大分異なるものになるのは当然である。作者自身作品の中でこれは暗号帳になっていると述べている。暗号解読には鍵が必要になるが、私はそれを虐待と考えた。それが正解と言うつもりは全くない。100人が読めば110通りの解釈が産まれる物語と言っても良いだろう。この暗号の鍵が虐待と言えば作者自身も驚くかもしれない。そこがこの小説のおもしろさであろう。小児科医としての私は以前より、村上春樹の作品から虐待の影を強く感じていた。しかし彼の小説に嘗てこれほど明瞭に虐待が語られたことはなかったが、常にそれは底流にあった。特に「ノルウェーの森」ではそれを強く感じた。直子の恋人の自殺、そしてそれに続く直子の精神の変調に関し、小説の中では全く語られていない。しかしそこには小児期に受けた虐待による心の傷があると暗示させる部分が、物語の最初に語られている。

 

井戸は草原が終わって、雑木林が始まるそのちょうど境目あたりにある。大地にポッカリと開いた直径が1メートルばかりのくらい穴を草が巧妙に覆い隠している。・・・・・僕に唯一わかるのはそれがとにかくおそろしく深いということだけだ。見当もつかないくらい深いのだ。そして穴の中には暗黒が(世の中のあらゆる種類の暗黒を煮詰めたような濃密な暗黒が)つまっている。

 

 

 

 この部分が伏線となって物語が進行している。登場人物のあるいは作者の心の闇を暗黒が詰まった穴として表現している。1Q84でも、暗い穴、森が小児期に受けた虐待による精神的な傷のメタファーとして使われている。1Q84の大きな特徴は登場人物のほとんどが小児期に様々な虐待を受けていることである。その背景説明は、虐待の実際を正確に描写しており、作者自身が虐待を十分に研究していることがわかる。その内容は虐待の集大成とも言える内容であり、虐待の教科書としても十分に通用しうるものとなっている。ではそれぞれの虐待を検証してみよう。

 

 青豆の両親は熱心な「証人会」の信者であり、信仰のルールを厳密に守ることを子供にも強要した。ルールを守らないと容赦なく叩かれた。母親は信者勧誘に熱心であり、勧誘には常に青豆を連れて行った。当時の青豆は顔が愛らしくなく、それが勧誘の道具として使えないと言って、青豆をなじった。信仰の深さと不寛容さは常に、裏表の関係であり、その強さは育ち盛りの子供の心にとっては致命的な傷を残すことになった。給食の前に親に指導されたお祈りをする姿は、クラスの子供にとってはあまりに異質であり、その結果青豆はクラスの異分子として、クラスの子供達はその存在を無視し、彼女はいないものとして扱った。それに対し青豆は、自らの存在を可能な限り希薄にすることで身を守っていた。母親からは偏狭な価値観を強要され、まともな愛情を受けられず、発達に必要な情緒的ケアも受けていない。学校生活でも正常な友人関係を築くことが出来なかった。これは典型的な情緒ネグレクトである。大塚環は青豆の中学時代に知り合った、ソフトボール仲間で、青豆唯一の親友である。裕福な家庭ではあるが、両親の夫婦仲が極めて悪く、父親は家には居ず、母親は情緒不安定で育児を放棄している。頭が良く、努力家で温厚な性格でありながら、好きになった恋人、夫はともに暴力を振るう人格障害のある男であった。何故そんな男を好きになるかは、詳しく語られていない。しかしこれは日常的にみられる現象である。その男達も小児期に数々の虐待を受け、その結果として人格障害を引き起こしている。過去の傷を共有することで芽生える愛情は時として病的に強くなってしまい、離れられなくなる。夫の家庭内暴力に耐えられず、26才直前で自殺する。親友の恨みをはらすため、青豆はその男を事故死に見せかけた殺人を実行し、成功する。その後青豆の連続殺人が始まる。その殺人を依頼する老婦人は麻布に住む資産家であり、彼女も小児期に親から捨てられた過去を持つ。彼女の娘も夫から残虐な家庭内暴力を受けていた。老婦人はその男を社会的に抹殺する。その後家庭内暴力で苦しむ女性のためのケアハウスを作った。その過程で知った悪質な暴力男の殺害を青豆に依頼するようになる。その老婦人のボディーガードをしているタマルという、マッチョなゲイもサハリンで親に捨てられた在日朝鮮人である。北海道の孤児院の劣悪な環境で育った。青豆が偶然知り合った警察官のあゆみも、小児期に受けた虐待の傷を持つ一人である。彼女の受けた虐待は、兄、叔父からの性的な虐待だった。虐待の基本はネグレクトにある。それに付随して種々の虐待が加わる。性的な虐待はそれ単独で行われることはなく、必ずネグレクトが背景に存在する。その事情は次の会話の中で語られている。

 

「もちろん別々にだけど。私が十歳で、お兄ちゃんが十五くらいだったかな。叔父さんはもっと前のこと。うちに泊まりにきたときに二度か三度か」 「そのことは誰かに言った?」 あゆみはゆっくり何度か首を振った。「言わなかったよ。絶対に誰にも言うなって言われたし、告げ口なんかしたらひどい目にあわせるって脅された。それに脅されなくても、そんなことを言いつけたら、そいつらよりは私の方が叱られたり、ひどい目にあわされたりしそうな気がしたんだ。それが怖くて誰にも言えなかった」 「お母さんにも言えなかったの?」 

「とくにお母さんにはね」とあゆみは言った。「お母さんは昔からずっとお兄ちゃんをひいきにしていたし、私にはいつも失望していた。がさつだし、きれいでもないし、太っていたし、学校の成績もとくに賞められたものじゃなかったからさ。お母さんはもっと違うタイプの娘をほしかったんだよ。お人形さんみたいで、バレエ教室にかようようなすらっとした可愛い女の子をね。そんなのどう考えても、ないものねだりってものだよ」

 「だからそれ以上お母さんを失望させたくなかった」

 「そういうこと。お兄ちゃんが私に何をしているか言いつけたりしたら、私をもっと恨んだり嫌ったりしそうな気がしたんだよ。きっと私の側に何か原因があって、そんなことになったんだろうって。お兄ちゃんを責めるよりはね」

 

ここまでの記述で虐待の実態が過不足なく表現されている。虐待の事実を母親に言えなかったことは、母親のネグレクトがあったことを物語っている。自己を肯定できない被虐待児特有の自己非難も見られる。ネグレクトされている子供が一番恐れることは、親から捨てられることである。親に捨てられれば自分は生きていけないことは子供ながら、本能的に感じることができる。そして日々の生活の中で捨てられる可能性を感じながら生活していたことをあゆみが簡潔かつ明瞭に語っている。この見捨てられることの不安感が、愛情を繋ぎ止めるために必死に努力することになる。その結果、性的虐待が表面化しないまま、長期間継続する。愛情を繋ぎ止めるために必死に努力することは、虐待者以外にも向けられるようになる。多くの性的虐待を受けた少女が思春期頃より衝動的な性行為に向かうことが知られている。しかしもともとある対人関係の不安定さと自己像の脆弱性から、場当たり的な性衝動は、愛情のデフレスパイラルに落ち込んでいく。この間の状況をあゆみは次の様に語っている。

 

「私自身のことを言えばね、男の人が怖いんだよ。というか、特定の誰かと深いところで関わり合うことがね。そして相手のそっくり全部を引き受けたりすることが。考えるだけで身がすくんじゃう。でも一人でいるのは時としてきつい。男の人に抱かれて、入れられたい。我慢できなくなるくらいしたくなる。そういうときにはまったく知らない人の方がラクなんだ。ずっと」

 

 天吾も青豆と同じような小児期に豊かな情緒を育む環境を与えられなかった。父親はNHKの聴取料集金人であった。集金の実績が優秀で職場では一目置かれる存在であり、それが父親の誇りでもあった。しかし、その集金方法に問題があった。支払人の同情を買う目的で、日曜、休日に天吾を連れて集金に回った。そのため天吾は物心ついた頃より、父親から旅行や遊園地に連れて行ってもらった記憶がない。子供にとって休日を父親の集金にかり出されるのは苦痛以外の何者でもなかった。さらに父親の集金方法がいささか常軌を逸しているものだった。

 

 「高井さん、かくれんぼはもうよしましょう。こちらも好きでこんなことをやってるんじゃありません。わたくしだってこれでけっこう忙しいのです。高井さん、あなたはテレビを見ておられるでしょう。そしてテレビを見ている人は誰しも、エネチケーの受信料を払わねばなりません。お気に召さないかもしれませんが、法律でそのようにきまっております。受借料を払わないのは、泥棒窃盗をしているのと同じなのです。高井さん、あなだだってこれしきのことでドロボー扱いされたくないでしょう。こんな立派な新築マンションにお住まいなのだから、テレビの受信料くらい払えなくないはずです。そうですよね? このようなことをみんなの前で大声で言い立てられて、あなただって面白くありませんでしょう」

 

サラ金の取り立てのような暴力的なものではなく、合法的なものであるが、神経を滅入らせる陰湿な取り立てであり、取り立てられる側は不快感を感じるであろう。同時に集金に付き合わせられた天吾にとっても不快感、羞恥心を禁じ得なかったであろう。さらに天吾には性的な虐待も受けている。母親と父親以外の男との性的行為を見せられている。性的行為を子供に見せることも性的虐待である。2才以下の記憶でありながら、その後長く天吾を苦しめている。突然その記憶がフラッシュバックし、動悸、息苦しさ、冷汗がにじみ出す心的外傷後ストレス障害(PTSD)に悩ませされることになる。成人後もこの男が自分の親なのかと悩む。その答えは書かれていないが、物語の断片をつなぎ合わせると読者は想像出来るようになっている。予備校講師をしている天吾には金曜日の昼に彼のアパートに来る、安田恭子という人妻のセックスフレンドがいる。出会いは全く語られていないが、不倫関係が一年程度続いた時点で突然関係が途切れる。恭子自身からの説明はなく、突然恭子の夫より電話で「家内は失われてしまったし、どのようなかたちにおいても、あなたのところへはもううかがえない」と告げられる。それ以外の説明もなく、天吾もそれ以上は聞けないで終わる。戸籍上、母親は天吾が2歳以前に、蓄電先の旅館で絞殺され、犯人は捕まっていない。認知症になった父親は猫の町と表現されている千倉の病院に入院した。久しぶりに面会に行った天吾は、そこで父親に母親のことを尋ねる場面がある。その時父親は「あんたの母親は空白と交わってあんたを産んだ。私がその空白を埋めた。」「空白が生まれれば、何かがやってきて埋めなければならない。みんなそうしておるわけだから」「説明しなくてはそればわからんというのは、どれだけ説明してもわからんということだ」と語っている。猫の町で知り合った安達クミとハッシシを吸ってベッドをともにするが、その時安達クミが自分は首を絞められて一度死んだが再び生き返ったと語っている。猫の町は彼自身のための用意された、この世ではない場所であり、彼が失われるべき場所と規定されている。安達クミはこの町はリインカーネーションの起こる町、天吾は出口が塞がれる前に出て行かなければならないと言った。また天吾は安田恭子は失われた場所にいると考えている。この猫の町は天吾の出生から小児期の歴史が詰まった世界と解釈できる。安田恭子も猫の町にいる。安達クミは天吾の実の母親の生まれ変わりであることが暗示されている。その世界には母親殺しの犯人もいることになる。それらを総合すると、天吾は不義密通の子供であり、母親は天吾の育ての父親に絞殺された。父親は自分と血の繋がりのない天吾育てた。しかし天吾に愛情を感じることはなかったと、謎めいた構成で語っている。このような愛情を剥奪され、豊かな情緒を発達させることを失われた天吾の人格的な傷害、精神的な苦しさを次の会話で表現している。

 

「僕は誰かを嫌ったり、憎んだり、恨んだりして生きていくことに疲れたんです。誰をも愛せないで生きていくことにも疲れました。僕には一人の友達もいない。ただの1人もです。そしてなによりも、自分自身を愛することすらできない。なぜ自分自身を愛することができないのか? それは他者を愛することができないからです。人は誰かを愛することによって、そして誰かから愛されることによって、それらの行為を通して自分自身を愛する方法を知るのです。僕の言っていることはわかりますか? 誰かを愛することのできないものに、自分を正しく愛することなんかできません。いや、それがあなたのせいだと言っているわけじゃない。考えてみれば、あなただってそういう被害者の一人なのかもしれない。あなただっておそらく、自分自身の愛し方をよく知らないはずだ。違いますか?」

 

被虐待児の心情を過不足なく表現しているくだりと言える。そして、虐待の連鎖に気付き、父親に対する怒り、恨みを沈め、失われた世界から出て行く。

 

 天吾が月が二つある世界に入り込んだのは、ふかえりの書いた懸賞小説の書き直しをしたことから始まる。17才の少女の書いた小説は読者を強く引きつける内容になっていた。しかし文章が稚拙であるため、そのままでは使えないため編集者の小松の独断でその書き直しを天吾に依頼した。思惑通り、その小説「空気さなぎ」は新人賞を取り、ベストセラーになる。芥川賞は取れなかったがそれについて小松は「これだけ売れれば芥川賞は必要ないだろう」と言っている。作家村上春樹の愚痴であり、皮肉であろう。「空気さなぎ」は幻想的な小説とされたが、宗教団体であるさきがけの中で実際に起きていたことであり、天吾、小松ともにその後の混乱に巻き込まれていく。学生運動から派生したたかしま塾から、過激な武闘派のあけぼのが分派し、残った集団が宗教団体さきがけに変質していく。農業集団だったさきがけで飼っていた目の見えない山羊がふかえりの不注意で死亡した。その懲罰のためその山羊とふかえりが土蔵の中で10日間過ごすことになる。その時に山羊の口の中からリトルピープルが出てくる。リトルピープルは誰かが望んで現れたのではなく、リトルピープルが山羊を利用して現れた。それ以降リトルピープルに乗っ取られたさきがけは宗教集団に変わっていく。リトルピープルはまず空気の中から糸を取りだして空気さなぎを作った。その中にはふかえりのドウタと呼ばれる分身が入っていた。元々のふかえりはマザと呼ばれ、ドウタはマザの心の影になる。ドウタはパッシバの役目をする。パッシバは知覚することができ、それをレシヴァに伝えるとリトルピープルが説明した。そしてドウタが目覚めると月が二つになった。ふかえり(深田絵里子)の父親深田保がレシヴァとなりリトルピープルの代理人となり、その時点からたかしま塾からのリーダーだった深田保は宗教集団さきがけの教祖となる。それは父親の本意とする所ではなかったので、彼は娘ふかえりを全共闘時代の友人戎野に預けることになる。その後深田保は物を空中浮揚させたり、人の心を読んだりする超能力を獲得する。深田保が視力に障害があると設定されていることからも、これは麻原彰晃をなぞっていることがわかる。月が二つ存在する幻想的な世界はリトルピープルによって作り出された。作者は一貫してリトルピープルと記述し、神とは絶対に言ってはいない。しかしリトルピープルは明らかに神を指している。リトルピープルに対する説明はそのまま作者の神に対する認識と理解しても差し支えない。即ちリトルピープルなるものは存在するが、それを神という言葉では表現したくないということであろう。ふかえりはリトルピープルは大きくもなく、小さくもない、指で数えられないものと語っている。それをさらに説明すると、深田保の以下の言葉になる。

 

 「影は、我々人間が前向きな存在であるのと同じくらい、よこしまな存在である。我々が善良で優れた完璧な人間になろうと努めれば努めるほど、影は暗くよこしまで彼壊的になろうとする意思を明確にしていく。人が自らの容量を超えて完全になろうとするとき、影は地獄に降りて悪魔となる。なぜならばこの自然界において、人が自分自身以上のものになることは、自分白身以下のものになるのと同じくらい罪深いことであるからだ。リトル・ピープルと呼ばれるものが善であるのか悪であるのか、それはわからない。それはある意味では我々の理解や定義を超えたものだ。我々は大昔から彼らと共に生きてきた。まだ善悪なんてものがろくに存在しなかった頃から。人々の意識がまだ未明のものであったころから。しかし大事なのは、彼らが善であれ悪であれ、光であれ影であれ、その力がふるわれようとする時、そこには必ず補償作用が生まれるということだ。この場合、わたしがリトルピープルなるものの代理人になるのとほとんど同時に、わたしの娘が反リトル・ピープル作用の代理人のような存在になった。そのようにして均衡が維持された」

 

また彼は金枝篇を引用してリトルピープルを説明している。本書にはヨーロッパのみならずアジア、アフリカ、アメリカなど世界各地で見られる様々な魔術・呪術、タブー、慣習など、フレイザーが史料や古典記録、あるいは口伝から収集した夥しい例が示されている。未開社会における精霊信仰、宗教的権威を持つ王が弱体化すればそれを殺し新たな王を戴く「王殺し」の風習や類感呪術、感染呪術などの信仰の神話的背景を探った民俗学・神話学・宗教学の基本書として高く評価される。王殺しを次の様に説明している。

 

「興味深い本だ。それは様々な事実を我々に教えてくれる。歴史のある時期、ずっと古代の頃だが、世界のいくつもの地域において、王は任期が終了すれば殺されるものと決まっていた。任期は十年から十二年くらいのものだ。任期が終了すると人々がやってきて、彼を惨殺した。それが共同体にとって必要とされたし、王も進んでそれを受け入れた。その殺し方は無惨で血なまぐさいものでなくてはならなかった。またそのように殺されることが、王たるものに与えられる大きな名誉だった。どうして王は殺されなくてはならなかったか?その時代にあっては王とは、人々の代表として〈声を聴くもの〉であったからだ。そのような者たちは進んで彼らと我々を結ぶ回路となった。そして一定の期間を経た後に、その〈声を聴くもの〉を惨殺することが、共同体にとっては欠くことのできない作業だった。地上に生きる人々の意識と、リトル・ピープルの発揮する力とのバランスを、うまく維持するためだ。古代の世界においては、統治することは、神の声を聴くことと同義だった。しかしもちろんそのようなシステムはいつしか廃止され、王が殺されることもなくなり、王位は世俗的で世襲的なものになった。そのようにして人々は声を聴くことをやめた。彼らはこれまで様々な名前で呼ばれてきたし、おおかたの場合、どんな名前でも呼ばれなかった。彼らはただそこにいた。リトル・ピープルという名前はあくまで便宜的なものに過ぎない。当時まだ幼かったわたしの娘が彼らを『小さな人たち』と呼んだ。彼女が彼らを連れてきた。わたしがその名前を『リトル・ピープル』に変えた。その方が言い易かったからだ」

 

 宗教とは大昔から人の生活の中に存在していた。呪術、加持祈祷、古代信仰から種々の宗教が枝分かれしたことを述べている。ダン・ブラウンは「天使と悪魔」のなかで宗教は全てコラージュであり、オリジナルな物は一つもないと述べているが、それとほぼ同じ内容を、言葉を代えて語っている。語られている内容には、宗教は無批判に受け入れられてはいけないという、作者の考えも語られている。彼は必ず補償作用が生まれると述べているが、これは補償作用がなければならないという、作者の主張であろう。金糸篇に述べられている王殺しを補償作用の一つの例とし、また天動説に対する地動説もまたその補償作用と説明している。物語の中ではふかえりが「空気さなぎ」を書いたことが反リトルピープル的な行為即ち補償作用だとしている。宗教が無批判に社会の中に受け入れられると、結果としてオーム事件のようなものが起きるのだと言っている。では何故オーム真理教のような現実離れしたオカルト宗教が一時期無批判に社会の中に受け入れられたのであろうか。その説明は以下の記述であろう。

 

 

 「世間のたいがいの人々は、実証可能な真実など求めてはいない。真実というのはおおかたの場合、あなたが言ったように、強い痛みを伴うものだ。そしてほとんどの人間は痛みを伴った真実なんぞ求めてはいない。人々が必要としているのは、自分の存在を少しでも意味深く感じさせてくれるような、美しく心地良いお話なんだ。だからこそ宗教が成立する」 男は何度か首を回してから話を続けた。 「Aという説が、彼なり彼女なりの存在を意味深く見せてくれるなら、それは彼らにとって真実だし、Bという説が、彼なり彼女なりの存在を非力で楼小なものに見せるものであれば、それは偽物ということになる。とてもはっきりしている。もしBという説が真実だと主張するものがいたら、人々はおそらくその人物を憎み、黙殺し、ある場合には攻撃することだろう。論理が通っているとか実証可能だとか、そんなことは彼らにとって何の意味も持たない。多くの人々は、自分たちが非力で楼小な存在であるというイメージを否定し、排除することによってかろうじて正気を保っている」

 

痛みを伴う真実とは何を指しているかは具体的には述べられていない。しかしそれはこの小説の中で多くが語られている、失われたもの、空白、暗い穴、森の中と表現されている心の傷であろうと推測される。小児期与えられるべき無償の愛が失われ、空白になっている心象風景は暗い闇に包まれた森の中であり、出口のない穴の中と言える。その空白を埋めるのが「自分の存在を少しでも意味深く感じさせてくれるような、美しく心地良いお話」であり、それが宗教なのである。それでは何故虐待の過去のある青豆と天吾が宗教に染まらなかったのか、とりわけ青豆は宗教を捨てて、家族と絶縁する道を選んだのかに作者の隠された意図がある。二人が迷い込んだ世界、青豆の1Q84と天吾の迷い込んだ猫の町は同じ世界であり、そしてそれは世界にただひとつの完結した場所だったのだ。どこまでも孤立しながら、孤独に染まることのない場所だったと規定されている。まさしくそれは二人にとっては、優れて宗教的な世界に他ならない。しかもそれはリトルピープルによって提供されている。猫の町で見た空気さなぎの中にあったのは天吾の分身であり、それは10才の青豆であった。その時点で二人は深く繋がった。その結果、ふかえりのドウタと天吾が性交することにより青豆が天吾の子供を宿すことになる。キリスト教における処女受胎を改変するとこのような黙示録となるのであろう。

 

 児童虐待を受けた子供は成人しても空想の世界に入り込むことが多い。虐待が過酷であればあるほど想像の世界は拡がり、強固になり、時に完全な別人格となる。さらに進むとその別人格が解離し、健忘さえ伴ってしまう。解離は能力とも評価される。豊かな想像力は過酷な状況を和らげることができる、癒しの手段でもある。しかしそれが過剰になれば自己像の同一性障害として現れ、精神の病理症状を呈してくる。多くは矯正困難であり、残虐な殺人事件がそれに関わっている。この虐待と児童の関係を、虐待を自然の天変地異、被虐待児を社会に置き換えても全く同じ状況が生まれる。社会が、過酷な自然災害、病気の苦痛を和らげるため、自然発生したのが宗教である。しかしそれが現実と大きく解離した教義を持つと、正常な社会と解離し、社会の病理を生み出してしまう。豊かな空想は人類の持つ叡智であり財産でもある。そこからは幸せも、文化も産まれてくる。しかし空想、妄想、幻覚は明らかに異なる物でありながら、その境界は必ずしも明確ではなく、連続性のあるスペクトラムとも考えられる。偏狭な宗教原理主義は豊かな発想を制限し、硬直した規律を強制し、神の名の下に、時に人間を不幸にすることさえも平然と行われる。神が人間を作ったのではなく、あくまでも人間が神を作ったのである。その神が人間を不幸に導く事象は明らかに病んでいる。空気さなぎはまさにこの状況を比喩的に表現している。物語の中でリトルピープルが四つの空気さなぎを作っている。それぞれが異なる内容と性格を持っている。無である空間から空気の糸を紡ぎ出しさなぎをつくる。それは時に空想であり、妄想であり、幻覚である。山羊の口が出てきたリトルピープルの作った空気さなぎはふかえりのドウタであり、オカルト宗教の道具として使われる。社会を病理に導く幻覚と言わざるを得ない。さきがけを抜け出したふかえりが通う中学校で親しくした唯一の友人トオルの部屋に作られた空気さなぎは、その中に3匹の黒い蛇が絡み合って、もつれて蠢いていた。その後トオルは発症して、療養所に入れられ、失われてしまう。これは類感呪術を表現している。日本でも丑の刻参りがこの類の呪いとして残されている。猫の町で作られた空気さなぎの中には天吾が初めて恋を知った10才の青豆がいた。それは20年の空白を埋め、幸せに導く豊かな空想である。外見が異形であることで、家族からも、学校生活からも阻害された牛河にも一時期、家族に囲まれ穏やかに暮らしたことがあった。しかしその後は裏家業の弁護士兼私立探偵として生きる過程で、リーダー殺害を殺害した青豆を探すようにさきがけから依頼され、月が二つある世界に紛れ込んでしまう。極めて困難な仕事を牛河は遂行し、ぎりぎりまでに二人を追い詰めるが、土壇場でタマルに殺害される。異形である故に家族、社会から阻害され、弁護士、探偵として有能である故に殺害されるとは、あまりに不条理で哀れを誘う。さきがけの建物に運ばれた牛河の死体の口の中からリトルピープルが出てきて、牛河の空気さなぎを作った。それは、牛河が長い人生の中で唯一、平穏で幸せな時期、即ち妻と二人の娘に囲まれて過ごした頃に生まれ変わるようセットされた。この空気さなぎは癒しと救いであろう。空気さなぎの話は、宗教は人が作り上げた物なのだから、人を不幸にするのではなく、人の癒しや、救いにならなければならないという作者のメタファーになっている。

 

 児童虐待の予後は孤独、抑鬱、恐怖症的不安、対人関係過敏症、パラノイア、衝動的性行為、解離、憤怒、自傷、自殺傾向、薬物依存、アルコール依存と際限がない。まだこれ以上並べることもできる。これらの本体は自己像の脆弱性とそれに付随する孤独感である。1Q84では特に孤独感を強く表現している。月を静謐な孤独感と記述している。また月は人の精神に異常を引き起こすとする、lunaticの語源を引用することで月に精神病理のフレーバーを施し、その月が二つ並ぶのは愛情という引力によるものであることを示し、そこに救いを求めている。村上春樹はサリンジャー、ドストエフスキー他に影響をうけていると語っている。サリンジャーはエゴに戸惑いながら自己を確立できない主人公を「ライ麦畑でつかまえて」で書いた。ライ麦畑から飛び出して、崖に落ちてしまう子供をつかまえて助けたいというのが、テーマになっている。ライ麦畑から飛びだそうとしている子供が、主人公あるいはサリンジャーに他ならない。村上春樹の作品では森の中で迷うとか、深い暗黒の穴に落ち込んで出られなくなるという表現が見られるが、その内容はライ麦畑から飛び出して崖に落ちる子供のイメージと重なる。ドストエフスキーは「罪と罰」で孤独な青年の心の闇を書き、「カラマーゾフの兄弟」では宗教と児童虐待を描いている。1Q84がこの二人から大きな影響を受けていることは明らかだろう。影響を受けたというのはそれによって、それまでの価値観が大きく変化したのではなく、自分の中にある心情が共鳴したということである。サリンジャーは社会生活に馴染めずホメオパシーに傾倒し、引きこもりの生活の後に没した。ドストエフスキーも賭博の常習癖、借金まみれの生活と、どちらも人格の偏倚が知られている。多くの人格障害は小児期における親との確執から産まれてくる。サリンジャー、ドストエフスキーにも虐待に近い確執があったように思われる。村上春樹は自身の親に関してはなにも語っていないし、語ろうともしていない。しかし今回、それを小説のなかで語ってたと考えても、それ程は間違ってはいないだろう。

 虐待が問題にされ始めたのはアメリカでは30年ほど前、日本では10年ほど前からである。それ以前は虐待がなかったのではなく、日常茶飯事であった。さすがに子供が死に到るまでの虐待は問題ではあったが、体罰は常識であった。泣かないホトトギスをどうするかの有名な例えがある。殺してしまえは論外ではあるが、鳴かせて見せようとか、鳴くまで待とうは、一つの見識と見なされている。しかし現在の虐待診断基準に当てはめればこれらは虐待に当たる。鳴かせて見せようの典型例は、戸塚ヨットスクールがそれである。鳴くまで待とうもネグレクトに該当する。それは、妥当にも思われるが、ホトトギスは鳴くことが前提で、鳴かなければ無視するという対応であれば、ネグレクトと言える。親が子供に対する愛情は無償の愛でなければならず、条件付きの愛ではだめだというのが、今の考え方である。つまり鳴かなければ鳴かないでも良いのだよと言わなければならないのである。しかし戦国の世でそれは通じなかったであろう。信長、秀吉、家康の幼少期は子供の成育に良好な環境とは言えなかったが、そこで育ったことで獲得した気質が、当時の状況では必要なことだったと考えられる。もしあの成人した三人が現代社会にタイムスリップすればどうなっているかを想像して欲しい。恐らくはとんでもないトラブルメーカーとなったであろう。現在の社会で要求されることは、温厚で協調性があり、コミュニケーション能力のある人物である。そのような人物は戦国の世を生き抜くことは難しい。体罰を伴った、スパルタ教育が一時注目されたことがある。今でもそれを支持する意見はあるが、これも現代社会では受け入れられないだろう。盲導犬の飼育方法で重要な点は、幼犬時期は絶対に叩いてはいけないということである。身の危険を感じると、原始反応である防衛本能が働き、噛みつくなどの行動を取る。体罰が繰り返されると、身の危険を少しでも感じた瞬間に、条件反射で攻撃態勢に入ってしまう。いわゆる咬み癖の付いた犬は、矯正不可能で殺処分されることが多い。これと全く同じことが人にも当てはまる。勇猛果敢で命を省みず突撃する兵士を養成するには、小児期から体罰を伴ったスパルタ教育は有効であったかもしれない。しかし現代社会では受け入れ難い教育と言える。突然凶暴になる、いわゆるキレる子供は、例外なく幼少期に体罰を繰り返し受けている。もし体罰が必用な情況があるとすれば、施行者が冷静になり、子供が過度な恐怖感を抱かせないように配慮する必用がある。しかし体罰は必用と主張している人達の多くは、体罰経験者であり、子供に体罰を加える時は理性を失った状態で体罰を加えている。これも虐待の連鎖の一環である。親の価値観を子供に押し付けることも、虐待である。青豆、天吾の幼少期の状態は明らかにネグレクトと呼ばれる虐待である。しかし虐待は如何なるものも許されないかと言えば、それは絶対に違う。時代背景、親および子供の性格、資質によって情況は異なってくる。多くの芸術家は児童虐待を経験している。豊かな想像力は劣悪な環境から生まれることが多い。またそれを経験した者は、自分の感性、思想を表現しようという強い意志を持つ。そこから芸術、文化が生まれてくるのである。時代の見えざる手により、児童虐待は少なくなり、その為凶悪な事件は少なくなった。それでも時々凶悪な殺人事件はあるが、戦前に比べれば明らかに数は減少している。虐待が少なくなった結果として起きている現象がマザコン、草食系男子の増加である。これはこれで問題もあるが、しかし時代の流れ、必然でもある。1Q84の中でも作者は、虐待は絶対悪とは言っていない。それどころか「心地よい環境から鋭い感性は産まれない」と述べている。小児期の劣悪な環境で育つ結果、自由な世界に憧れる心、自立する力、たくましい想像力、人の悲しみ、苦しみを理解する心が芽生える。親を失い、孤児院で育ったジュディが、あしながおじさんに手紙を書き続ける話をかいたウェブスターは、孤児院や感化院での活動が多く、その内容を熟知していた。この話は実話ではないが、ジョディの性格が孤児院育ちの特徴を良く出していることから、実話に基づいた話と考えられる。想像力が豊かで、ややシニカルでありながら、観察力、感性に優れ、他人の心の痛み、悲しみを理解し、愛すること、愛されることにひたむきであること、それは生まれつきの資質に孤児院での決して良好とは言えない環境が育んだものである。女性としての魅力だけでなく、人間としての魅力も備わっている。1Q84に出てくる登場人物はほぼ全員児童虐待の影を背負い、強い個性を見せながら魅力的な人間として描かれている。善い悪い、好き嫌いは当然あるであろうが、少なくても一緒にいて退屈しない連中である。

 村上春樹の作品には、常に音楽に対するこだわりがある。1Q84にもそれは強く出ている。クウィーンやアバに対しては「やれやれ・・・」と語っている所をみると、それは嫌いということだろう。歌謡曲に関しては本文中に全く出てこない。歌謡曲はもっと嫌いということなのだろう。もし1Q84が映画化されるとすれば(絶対に無理だとは思うが)最後に流れるテーマソングはイッツ・オンリー・ア・ペーパームーンIt’s Only A Paper Moonということになるだろう。巻頭言にその歌詞が使われ、本文中にもその歌詞が引用されている。

Without your love

It's a honky-tonk parade

Without your love

It's a melody played in a penny arcade

 

It's a Barnum and Bailey world

Just as phony as it can be

But it wouldn't be make-believe

If you believed in me

 

君の愛がなければ

それはただの安物芝居に過ぎない

 

ここは見世物の世界

何から何までつくりもの

でも私を信じてくれたなら

全てが本物になる

 

村上春樹好みの曲調であり、詩の内容も1Q84そのものといえる。しかし私はあえて歌謡曲を最後のテーマソングに選びたい。

 

歌手:フランク永井

作詞:岩谷時子

作曲:吉田正

 

そばにいてくれる だけでいい

黙っていても いいんだよ

僕のほころび ぬえるのは

おなじ心の 傷をもつ

おまえのほかに だれもない

そばにいてくれる だけでいい

 

そばにいてくれる だけでいい

泣きたい時も ここで泣け

涙をふくのは 僕だから

おなじ喜び 知るものは

おまえのほかに だれもない

そばにいてくれる だけでいい

 

そばにいてくれる だけでいい

約束をした あの日から

遠くここまで 来た二人

おなじ調べを 唄うのは

おまえのほかに だれもない

そばにいてくれる だけでいい

 

 

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